松渓山焼
松渓山焼とは
一説によると、創業が文政年間にまで遡ると言われる松渓山窯。
島根県は温泉津町、小浜地区の山道の先に14段の登り窯を構え、石見焼の中でも最古窯のひとつに数えられていました。
温泉津町誌の記録によると慶応元年頃、温泉津窯業家として豊田竹三郎が開いたことから記されています。その後屋号を「いしだや」とし、ややあって、松之助と続きます。
松之助は温泉津のお隣江津市(ごうつし)の山本家を相続し、駄毛瀬の「松渓山窯」で丸物を生産。
その松之助を父に持つ山本梅雄氏は、伝統的なはんど(水瓶)づくりを受け継ぎました。
良質な粘土を産出することから隆盛をたどり、温泉津港から北海道、北陸、九州へと積み出されていったそうです。
土の採取を始め釉薬づくりまですべてを手仕事で行われたこと、夏は大汗をかき冬はあかぎれまみれになりながらものづくりに徹したと奥さまは語ります。
その後は茶道具(茶碗、煎茶器、風呂、釜、水指、水滴、建水)や花器、食器や雑器類など、自家製の粘土と緑釉、藁白釉、来待釉などを用いて仕事をされています。
作陶家 山本梅雄氏について
故・山本梅雄氏は昭和7年1月生まれ、父松之助さんに師事し、福岡の高取静山氏のもと茶陶を学び、また河井寛次郎や浜田庄司とも交流があったそうです。
あえて好んで行う仕事の窯変辰砂は、一度二度で可ならずと思えば、三度でも四度でも時には十回でも窯に入れてみたそうです。
出合がなければ土間に投げつけて毀し、あくることなく繰り返す。
奥さま曰く、うまくいかぬときは酒をあおり、そうかと思えば夕食後、19時に作品に囲まれて寝付くこともあったということです。
この梅雄氏が、令和4年において松渓山焼最後の作陶家であるわけです。
民俗文化と信仰
松渓山焼においては、火・土・水の「三神」への信仰が存在しました。
それらは古事記における伊邪那美命が軻遇突智(カグツチ・迦具土神)を産んだために、陰部に火傷を負って病に臥し、亡くなった際に生まれた尿や糞などの神がその信仰の対象となっており、土は埴安神(ハニヤスノカミ・波邇夜須毘古神)、水は罔象女神(ミズハノメノカミ・弥都波能売神)であることが天地自然の神の祭りとして祀られていた軸からわかっています。
火入れの時、登り窯の大口の内外にお神酒をかけ、すべての小口に塩をまき清め、柏手を打ちます。
松渓山窯の信仰を語る上では、島根県における民俗文化に触れておく必要があります。
島根県の西部・石見地方には「石見神楽」と呼ばれる日本神話などを題材とした、伝統的な伝統芸能があります。
神職により執り行われていた儀式舞である「大元(おおもと)神楽」をルーツとし、現在は演劇的要素を含んだ能舞として、今もなお石見地方には100を超える社中(神楽を舞う団体のこと)存在し、毎週土曜の夜に行われるなど、大衆文化として受け継がれています
※1979年 大元神楽は国の重要無形民俗文化財に指定、2019年 石見神楽が日本遺産に認定
ルーツである大元神楽は、古くから島根県の西部に広くあった大元信仰に由来します。
この大元信仰は、恵みを与えて下さる神さまへ感謝の気持ちを表し奉ることから、自然に行われるようになったと考えられ、特に自然と深いつながりのある農山地では、大切な神様として信仰されてきました。
日本人の神に対する信仰は、自然への畏怖の念の現れであり、それは恵みも災いももたらすものと考えられてきました。水田をうるおす恵みの水をつかさどる一方で、大雨や洪水を引き起こす水の脅威もつかさどっている‥。
そのため常に自然に神を重ね、敬意を払う儀式的習慣が受け継がれてきたのです。
松渓山窯においても同様です。
焼きもの作りに欠かせない火・土・水に「三神」を重ね、信仰とともに作品作りが受け継がれてきたのです。
参考文献:
温泉津町誌 上巻/温泉津町、山陰の窯元/立花書院、温泉津町編 石見窯誌/温泉津町、島根県古代文化センター 研究論集 第17集 近世・近代の石見焼の研究/島根県古代文化センター、先物協会ニュース 平成15年6月発行